還暦つれづれ草
ピーナッツ
ひと息ついてバターピーナッツをつまみながら、紅茶にブランデーなどを垂らして飲んだりすることがある。
値段の違いなのかブランデーにも良い香りのするものと、全然香りのしないものがある。それはそれとして
そういうとき、私はバターピーナッツを半割れのヤツから選んで食べていることに気が付く。半割れのヤツが
全部無くなってから完全な形のヤツを食べるのである。我ながら貧乏くさいなと思うのだ。
緑茶でカリントウを食べているときも、カリントウの袋をかき回しながら半折れのヤツとかチビたカリントウを
探して食べることが多いのだ。チビたヤツは黒砂糖が固まって付いていたりすることもあって美味しいのだが
これも貧乏くさいなあとつくづくと思ったりする。
子供のとき、よく大好きな物は残しておいて一番最後に食べるということをやったものだが、大人の場合は
それとはちょっと違うのだ。要するにこまかいことに気がいってしまい大胆に食べられないのだ。ピーナッツを
ガバッと鷲掴みにしてホイホイと口へ放り込み、手からこぼれ落ちようが口へうまく入らずにはね落ちようが
気にせずポリポリと食べる。そういった大胆なことが出来ないのである。良く云えば食物を粗末にせず、大切
に扱う習性が身についているのだ。これも終戦前後の食糧難の体験の中で身に染みついたものなのか。
しかし、あのとき配給になったピーナッツの缶詰は粒が大きく、そして粒揃のものだった。まるで宝物のよう
な気がしたものだ。
母が一時期、新宿の人通りの多い街中の露店でピーナッツを売っていたことがあった。なんでもしなければ
食べていけない時代だった。母が持ち帰ったピーナッツのおかげで、育ち盛りの私は栄養をつけることが出来
たのだと思っている。
一度露店に連れて行って貰い、母の横で道行く人々を眺めていたことがあった。帰りに露店を取り仕切るオヤ
ジさんの所へ寄ったのだが、母がしきりに私に挨拶しなさいと言っていたのを今でも憶えている。
想い出しているとなんだか悲しくなってくるのである。
('03年5月23日)