北陸の峠道


宝尾峠・子生坂

二つの峠とも大飯町と高浜町の境にあって、宝尾峠は高浜町の日置(ひき)から大飯町の川上へ抜ける道の
峠だ。子生坂(こび坂)は子生から同じく川上へ抜ける道を云う。今回膝のことも考え歩きやすく短い距離でと
考え自然遊歩道と聞いたので、宝尾峠の往復を計画した。川上地区へ流れる川の上流辺りには、その昔「摩
野山一乗寺」と云うお寺があって、欽明天皇開基といわれる。どうやら歴史に彩られたところのようだ。

何故か川上の集落の奥から道へ入るというのが頭にあって車を走らせていると、1人のおばあさんが道端に
いらしたのでお聞きする。すると、ここからですよと目の前の道を指す。少し行くと標識があるので、そこを曲が
ると言う。車を置く場所も教えてくれた。支度をしてその道を行くとすぐに、今度はおじいさんが現れて、登り口
まで案内するという。おかげで助かった。下の方で見ていてくれて、「そこまで行くと行き過ぎだ、左の斜面に
道があるだろう」と言って追いかけて来てくれたりしたのだ。全く今日無事歩けたのは、このお爺さんのおかげ
だ。子生坂が二つあることも聞いた。普通に云う子生坂はあそこだと鞍部を指さして教えてくれた。

 
宝尾集落跡へ向かう快適な尾根道

道はじぐざぐに登ってゆき、歩きやすい。15分ほどで尾根に辿り着き、その少し先で下から登ってくる良い道
に出る。これが地図にある本来の道らしい。このことは家に帰って地図を見ていて気が付いたのであるが。
そこからは緩く尾根を登る歩きやすい良い道だった。木のトンネルで陽はあたらず、適度な風があって休憩
すると汗が引く。やがて太い竹に占領されたような宝尾集落跡に着く。

 
宝尾集落跡にあった石仏とお墓か?

集落の中は歩かなかったが、峠への道を見下ろす様に石仏と多分お墓と思われるものがあって写真を撮った。
そこから道は横へ横へと進むのだが、急な斜面を横にけがいた様な処が多く、昔は幅広く歩きやすかったのだ
ろうと思うが、歩く人もなく風化浸食されてしまったのだろう。峠直前は危なくて、とても道とは云いがたいもの
だった。危なくて立ち止まったら、目の前に風化した小さな地蔵の様なものがあった。

 
宝尾峠直前にあった風化した石仏                         宝尾峠           

峠からの見晴らしはなく、四角い石が立てかけてあるだけだった。しかし、風通しがよくて、汗が引いて寒く感
じるほどだった。今来た危ない道は戻りたくない気持で、距離も短いので尾根伝いに子生坂の峠まで行き、川
上へ下ることに決めた。尾根は町境だし里山なので、きっと歩きやすくなっていると確信があった。


子生坂の峠の近くから子生集落を見下ろす 

尾根は予想どおり歩きやすく、下りの急なところがあったが膝を庇ってゆっくりおりた。子生坂の手前には今日
唯一の見晴らしの良いところがあり、子生坂の峠からも昔は望めたのかも知れない。峠は今は薮で、鎌でもあ
れば鞍部の数メートルの部分だけでも刈り払って措きたいと思ったくらいだ。
少し離れて大きなお地蔵さんがいた。そこだけ強い陽射しがあって写真はうまく撮れなかったが、このお地蔵を
みたら蝿帽子峠のそれを想い出した。大きいところが似ている。


子生坂の峠のお地蔵

子生坂の川上集落への下りはひどいクモの巣だった。道に迷うことはなかったが、峠道らしい面影を残している
とはいえ、草が道を隠し両側から枝が伸びて歩きにくい。こちらは歩く人が少ないのだろう。ひょっとすると子生集
落へ下る道がひどい状況なのかも知れない。鯖を運んだ歴史の道もだんだんと消えつつあるのは寂しいことだ。


今降りてきた子生坂の峠を望む 左から尾根を歩いて鞍部の峠へ

林道へ降りたら涼しい風が吹いていて生き返った様な気持になった。色づいた稲穂の上を赤トンボが飛び交い、
静まり返って、登り口のある家の周辺には人影はなかった。

('04年8月11日)
<足跡>



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