北陸の峠道


戸ノ口坂と三峯街道

戸ノ口坂は、県道25号福井今立線の福井市西大味町と鯖江市上戸口町の間、現在戸口トンネルが
通っている処だ。地図で見ると福井側からトンネルへ入る手前に右に道がある。その道は大回りをして
トンネルの上を通って鞍部を抜け、くねくねと鯖江側のトンネル出口近くへ到達する。これが昭和24年に
改修された旧道と云われる道だ。



戸ノ口トンネル福井市側口 車の処を右へ旧道 私は左手の斜面へ取り付いて峠へ登った

峠の標高は180m程度で、トンネル手前からだと標高差は100mも無いと思われる。だがら、昔々の峠
への道は、急な道ではあるが、ずっと近道だったのではあるまいか。そう思った私は、道の左へ入る道が
あるので、そこへ入ったのである。入り口に重機が置いてある所だ。道はすぐに不鮮明になり、急な斜面
へ取り付く。灌木に掴まりながらだが、案の定、間もなく旧道に出る。それも峠の近くだったのだ。

峠道(旧道)は林道と交叉する形で、そこから舗装されて上戸口側のトンネルを出た処に下る。峠は林道
との交差点でお地蔵さんの祠もある。あまり趣は感じられないが。三峯城跡の方へ向かう林道には案内
の標識がある。逆は尾根伝いに広野山の方へ向かう林道だ。
トンネルの上戸ノ口側へ出た処には竣工記念碑があるが、その後ろの方は斜面に取り付き易く、往古の
道は、その辺りから直登に近いものが付いていたらしい。



戸ノ口峠から旧道に一歩福井市側へ足を踏み入れると

朝倉街道として使われていた時代は、軍馬が駆け抜けたであろうから、今の旧道であったのだろう。しか
し、この歴史ある道を知ってか知らずか、峠道を塞ぐように冷蔵庫や洗濯機、自動車までもが捨ててある
のだった。
戻りは、この長い旧道を歩いて福井側のトンネル口へ戻ったのだが、如何にも長い峠道ではある。

* * * * *

三峯街道                                                       
福井から鯖江に越える朝倉街道は、榎坂、戸ノ口坂そして金谷峠が挙げられる。どれがメインであったか
は別にして、緊急時には全ての道を利用すれば多くの軍馬が短時間で移動出来ただろう。更に、もう一つ
仮に三峯峠と呼ぶが、鹿俣(かのまた)から峠を越え上戸ノ口へ至る三峯街道と呼ばれる道があったのだ。

その峠は三峯城跡への遊歩道が始まるところで、追分地蔵が建っている。その手前には「大いちょう樹」
があって、村跡がある。三峯村は昭和12年(1937)11月、最後の1戸が村を離れ廃村となったとあり、
大いちょうの樹を見下ろす道の案内板の側に綺麗なパンフレットが置かれてありました。

上戸ノ口のバス停近くから三峯街道に入り、車を走らせましたが、現在は地図よりずっと先まで林道が造
られていて、林道から徒歩に移るところが判らず、時間切れとなってしまいました。しかし、林道は三峯街
道とどういう関係か判りませんが村跡まで造られる予定となっている様です。

 

三峯に関する諸々の事は、三峯城跡保存会のホームページにあらゆる角度から詳細に亘って掲載されて
います。三峯街道についての伝承には、「勝山・大野方面から武生や上方へ行くのに大変便利ということで
大昔から旅人がさかんに利用した」と云う。また、「一乗谷の殿様から、軍用路として三峯街道の整備と通
行人の便宣に当るよう、命令を受けた。また、一乗谷が栄えていたころ、城山からは鯖江や武生・福井・坂
井の方までよく見えるので、一乗谷に伝える狼煙場になっていたということである。ほかで上がった狼煙も
城山でよく見えたそうで、いつでも城山に見張りの武士が昼夜、交代で四〜五人城に詰めていた。武士達
は三峯の村から城山へ通っていた。」と云うこと等々が、聞き取りでまとめられてあります。記録としては残
っていないそうです。


草むらから頭を出している追分地蔵を見つけた時は感激してしまった。追分けとは道が分かれる処のことを
言い、そこに建てられるお地蔵さんを追分地蔵と言います。すぐ側に石の道標も建っています。お地蔵さんの
両側の2体が破損と風化で見る影もないのが残念だ。



('04年6月3日)


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おまけの写真

 

   戸ノ口坂峠のお地蔵                               旧道途中にあるお地蔵

 

三峯村集落跡の大イチョウ                                 三峯墓地跡 



三峯城跡 城山404.5mを中心に構築された 三角点あり
 石碑はここで闘った脇屋義助(新田義貞の弟)の顕彰碑 



追分地蔵