菅谷の伝説

 一、菅谷の巨蟒蛇(うわばみ)

 宝暦三年の五月の何日だっただろうか、江沼郡の荒谷という所に、六兵衛と長吉という兄弟の猟師がいて、二人とも生まれながら勇気があって、たくましく、特に鉄砲打ちに優れていました。たとえば百歩離れたところの猛獣をねらっても一度も外れたことがなく、どーんと音がしたと思ったら、その猛獣が倒れていたということです。
 ですから日ごとに獣を射止めることについては、ちょうど手品師が袋の中に手を入れて物を出してくるようなものでした。
 この日、兄弟は二人そろって、菅谷という村の山奥を探し回っていると、風に何か変な臭いがして、草木もちぢむように感じ、何となく空恐ろしくなって、谷を出ましたが、今までどこの村の谷へ入ってもこんなことはなかった。
 この菅谷という村は、初めて入ったとはいえ、こうしたことは過去にも何か訳があったのだろうと立ち戻って友人の猟師に相談したところ、「君は知らなかったのか。この谷の奥には昔から巨大な大蛇がいて、人間が一度この逆鱗にふれる時には、生きて帰ることはないと聞いている。きっとその仕業だろう。
早く帰りなさい。」といって去っていった。
 この話を聞いて長吉はかえって危険を顧みず、それに立ち向かう様子であった。また六兵衛はどこへ行くのかとたずねると、長吉は「それが何者か、どんな姿をしているかわからないのなら仕方がない。すでに蟒蛇(うわばみ)と聞いてからには、どうして退いて帰られようか。私の手の中には、蒼い海の底に住むという大きな蛟龍(みずちと龍)と言えども、立ち向かう技を持っている。どうしてたかが一匹の小蛇に、この谷を探しつくさずに帰られようか」といった。
 六兵衛もうなずいて一緒に今来た谷道を再び歩いていくと、藤葛が生い茂り、巨木が自然に枯れ朽ちて、ここがあの菅谷の猫岩というところだろうか、人のうわさに聞いていたとおり、恐ろしいところである。道は大きな石がごろごろとし、気味悪い谷川の毒気が感じられ、それより一歩も進むことができなかった。
 二人はそれぞれ鉄砲に玉を込め、火薬を詰め込み、立ち並んで声をひそめてうかがっていた。
 ちょうどそのころは五月の雨がしとしとと降り、雲が低く垂れ、薄暗いなかに、深くかすかに岩頭に白い花が咲いているのが見えた。その中にあれは何だろうと指さし覗いてみると、大きさが二抱えもあるだろう牛の頭のようなものが見えた。
 何が出てきても、わしに敵するものはいないという鼻息の荒さは、なるほどわかってみれば嵐のことを山風とわかったのと同じで、勇気がわいてきたのである。
 とはいえその怪物は、二人の身体も心もしびれるほど、臭気があたり一面に立ちこめ、岩にまとわりついたその長さを計ることができないくらいであった。六兵衛と長吉はそれでも恐れず、鉄砲の筒先(銃口)をそろえてその大きな蟒蛇の鼻頭をねらって、たがいにドーンと火ぶたを切って打ちはなしたところ、思うところへ二発とも命中し血煙が上がった。
 たちまちに山が鳴りわたり樹木がめきめきと音を立てて動き出し、何とも言えぬ臭気と黒い煙が立ちこめ、真っ暗になってしまったので、兄弟は鉄砲をかついで急いでかけだした。谷の中は暗く風が吹き抜け、石が砕けて大木がねじ折れる音がすさまじく響いていた。
 一時間ほどして、一声ドーと何か倒れる音がした。この響き渡る音は、大地も裂け砕けるかと思われるくらいすごかった。
さしも剛気の猟師だったが、この時には足がふるえ腰も立たず、へなへなと道に座り込んでしまった。
 そのあとに、この谷の中に、大きなウワバミが死んでいたという。それを聞いて人々も恐れていたが、数日して大聖寺の家中からも一・二人行ってみた。見物人が多く集まり、とうとうその姿を引きずり下ろし、身の丈を計ってみると、胴の回りが八尺ばかり、長さは九間ほどあった。思ったより短いものだと家中が見てきた話である。
 この蟒蛇の鱗といって、いまこの場所に残っている。それよりこの谷は浅くなり、木は枯れて夜の暗闇にも人々が自由に通うことができるようになった。二人は今も熊を撃ちイノシシを追いかけていとまなかった。いつも深山幽谷に行き通っているが、この大蛇を撃った時ほどの恐ろしさはなかったと語った。
                                                   「三州奇談」(江沼郡誌)より口語訳



二、菅谷の鬼婦

 加洲江沼郡菅谷村の平四郎の妻は、橋立村の伊右衛門という者の娘であった。夫婦仲睦まじく、子供が二人生まれた。平四郎の親までは猟師などをして生き物を殺したりしていた家であったけれども、今の平四郎は大聖寺の森崎のあたりに行き通っていたいたから、山家(いなか)の出身だったが、戦記物の一節なども聞き覚え、立ち居振る舞いも武骨でなかった。最近では大庄屋の下役人となっていた。
 妻も山家に似ず、物静かな人であったが、或夜、何か化け物が誘うように感じて心がにわかに変わり、骨格もたくましくなり、気性も荒くなった。夫の平四郎が寝ている足の付け根が布団から外に出ていたところ、かぶっと食いついてしまった。この時口は大きく裂け、歯はするどい剣のように見え、股の間を強くかぶりついて起こした。平四郎はあっと一声叫んで気絶してしまった。
 この物音に驚き家の中の者が灯りをともしてやってきた。これを見ると平四郎の妻はちょうど鬼のような姿をしていた。その肉をかむ音は魚を食べるように、長い舌を出し、口の辺りに付いた血をねぶり回していたが、人々が見ていても少しも驚かなかった。また、二歳になる男の子を引き起こして逆さまに持ち、足二本をいっぺんに口へ押し入れた時、集まった人々が飛びついて、これは大変だと力持ちの者二三人が取り囲んでやっと引き離した。
 しばらく様子をうかがっていると、その二歳になる子を食べさせよとわめき散らした。そのうち近所の医者が集まって平四郎に気付け薬など飲ませたところ我に返った。しかし足が大変痛くて死ぬか生きるかわからなかった。女房にどうしたのかとたずねると「べつにいつもと変わったことはありません。ただその夜、十二時ころに誰かしら人が誘うように思ってから、無性に人間の肉を食べたくなり、のどの渇きをうるおすようなものだった。私は今殺されることは少しも恐れていません。二歳の子を私に食べさせてください」とややもすれは、飛びかかろうするので、人々は放っておくことができず、大聖寺の奉行所へ訴え出たところ、即刻六人を遣わされたのだった。
 今ちょうど宝暦十三年三月のことだった。
                                                   「三州奇談」(江沼郡誌)より口語訳


三、池んじゃらの大蛇

 菅谷の八幡神社の裏の山を「みやま(深山・御山・神山)」といっているが、その山に「池んじゃら」という平(たいら)
がある。そこは大きな木に覆われて昼でも薄暗いところで、底は池になっていた。その池には今も菅(すげ)が生えている。
 昔々そこに大きな大蛇が棲んでいたという。その大蛇が時々池の中で寝返りを打ったり、暴れて泳ぎ回ると、池の水が波打って、その池から水が溢れだして、下にある東田の田んぼを水浸しにしたりして村人を困らせていた。 困った村人たちは、大蛇が早く退散するように神主に祈ってもらうことにした。
「ここはあなたにとって棲みよい所かも知れないが、水が溢れて私達は夜もおちおち寝ていられません。どうか別の場所へ行ってくれぬか。」
と池に向かって語りかけた。
 そうしたところ、池の中から大蛇が現れるかと思ったら、若い娘が現れて
「そんなに困るならば、私は片野の浜へ行こう。私を見たければ片野の浜へ来なさい。」
と遺言を残して去っていったという。
 それより池の溢れることは無くなったという。その場所には今も菅が生えており、昔からそこに生えた菅は牛でも馬でも食べなかったと言われている。
                                                 「南加賀の昔話」・「旧村誌」等より
 千年の行を終えると池から出て山を下り、大聖寺川に入って片野へ行った。(加賀江沼の字名)




四、蓮如上人の椿清水

 文明五年(一四七三)九月下旬、本願寺の第八代蓮如上人は越前の国、藤島の超勝寺から大内の峠を越えて加賀の国に来られた。上人は山道の険阻に疲れて、菅谷のとある農家の入口にある庭石に腰を掛けて休んでおられた。その折農家の主人理助という者が応対に出た。
「蓮如上人とやら、私は生まれ落ちるより、聖道自力の教えを受け、未来仏果にいたるべき教えを聴いているが、お釈迦様はすでにおられず、弥勒の世にはほど遠い、時は末法の世であり、この私は下根の凡夫である。これでは来世は永く三塗に沈むより他に道はありません。どうか私の根機にかなう法があれば教えたまえ。」と教えを乞うた。
 上人は、大層喜びの色を表され、
「理助よ、弥陀の教えはそのような者のためにこそあるのだ。釈迦の説かれた教えはたくさんあるが、今は末法の世であり、聖道自力の教えではなすことができない。弥陀他力の教えは善人も悪人も選ばれない。」と丁寧に教化なさった。
 その時主人が申すようには、
「私のような修行もできず十悪五逆の末世の凡夫も救われると言うならば、確かな証拠を見せてください。」と言うことになった。上人は年来お持ちになっている椿の杖を大地に指しておっしゃった。
「汝、疑ってはならない。弥陀の本願を疑いなく、信心決定すれば、今度の報土往生は間違いない。その証拠にはここに指した杖の下より清水が湧き出るだろう」と言われ、杖を抜かれると、不思議なことに杖の下から清水がこんこんと湧いてきた。 上人は続けておっしゃるに
「この清水、多くはないが、我が勧める弥陀の本願は末世濁世において繁昌するぞ。その証拠には、いかなる干魃豪雨にも不増不滅、ちょうど大海の水のように変わらないであろう。これからこの地を椿の清水と名づけ、末代まで悪人往生の証拠に残すべし」と。
 主人はその不可思議な法の力に驚き、たちどころに聖道自力の教えを捨て、弥陀他力の教えに改宗した。すなわち鬢髪を剃り上人の弟子となり教願という法名をいただいた。その後上人が山中温泉にご入湯の間、常におそばにいて教えを蒙った。
 これが今の菅谷徳性寺という寺になった。
                                                              「徳性寺御旧跡略縁起」等


五、八幡神社の三つ叉大杉

 菅谷の八幡神社の大杉は三つに分かれているが、どうして三つに分かれたのかというと、昔菅谷の人が集まってあの大杉を伐って帆柱にしようと相談を決めた。その翌日一同がお宮へ行ってみると、大杉は三つに分かれていて、帆柱には不適となってしまっていたという。
                                                                            「旧村史」より

戻る