還暦つれづれ草



故郷・ふるさと



故郷と云うと「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・・」というイメージが相応しいと思うのである。
東京で生まれ育ち、転勤して福井に居着いた私は、故郷はと聞かれたら、東京と答えざるをえない
のだが、いまいちピンとこないものがあった。

私の育った品川区大井伊藤町は、伊藤博文公のお墓のある所で、そこは木々がこんもりと繁ってい
て、沢山の小鳥達が毎日朝何処かへ出かけては夕方騒々しく帰ってきた。


(伊藤博文公墓所)
私が高校を卒業してこの地を離れてから、残念ながらいろいろな町名が消えて西大井に統一されて
しまった。伊藤町、原町、滝王子等々が無くなってしまったのは寂しい。

私は戦後最初の小学校入学生なのだが、当時の男の子の遊びと云うと、めんこ、ビー玉、ベーゴマ
正月には凧揚げや、塀を背にしてケン玉をした。「怪傑ゾロ」という映画の影響を受けてチャンバラも
したし、缶けりや戦争ごっこもした。近所の子供達はみんな集まって一緒に遊んだような気がする。

夏の夕方は品鶴線の上に架かった橋の上に集まった。今は横須賀線が走りその上を新幹線が走
っているのだが、夕方になると何故か決まって線路づたいに上空を銀やんまが飛んでくるのである
。私達はトンボに向かって小石を投げる。小石に釣られて急降下してくるトンボに対し、捕まえようと
いっせいにモチ竿の先を左右にしならせた。

しかし、なんといっても忘れられない下町の風景といえば縁台将棋だろう。自転車屋のおやじさんを
はじめとして、大人の人達と一緒に我々子供達も一人前の顔をして将棋を指した。今と違って車の
通りの少なかった表通りでの縁台将棋は、多くの通行人が立ち止まってのぞき込むので、私ら子供
達も得意になったものだ。「歩のない将棋は負け将棋」「敵もさるものひっかくもの」などと言いながら
時間の経つのも忘れて熱のこもった戦いを繰り広げたのである。

自転車屋の隣は床屋で、その隣は寿司屋だった。床屋で順番を待っている間も将棋をした。小学生
の私らが大人を負かせたりして驚かせたりもしたのだ。寿司屋は男ばかりの6人兄弟(だと思った
が)がいて良く遊んだ。将棋では好敵手だった。


(そば処つたや)
今回この文を書きたくなったのも、久しぶりに大井町に立ち寄る機会があって、懐かしい街を一時間
ばかりぶらつくことができたし、子供の頃よくもりそばを食べたそば屋の「つたや」で、念願のざるの
大盛りを食べることができたからだ。そば屋のおにいさんは、もりそばなどを高く積み上げて自転車
で出前をしていたが、その技には尊敬の念さえおぼえたものだ。
昔、美人の嫁さんを貰った「つたや」の主人は、そのまま老けたという感じで、そばをゆでてくれた。
そばつゆも40年前と同じ懐かしい味だ。

家々は建て替わっていたけど走り回った細い路地などはそのままで、子供の頃を想い出させるには
十分だ。ここはまさしく「ふるさと」だと実感できるところなのである。

この次来る時は、夜「吾妻寿司」で将棋の好敵手であり、私に自転車の乗り方を教えてくれた「よん
こう」こと米三さんの寿司で一杯やりながら、昔話に花を咲かせたいものである。

(’00−04−13)



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