北陸の峠道


知井坂から八ヶ峰


知井坂(峠)は名田庄村堂本と京都府美山町八原を結ぶ県境にある。槙谷川と染谷川の合流
するところに石碑があり、峠道はそこから始まる。染谷川沿いにさかのぼると五波峠へ行くので
昔は分岐点の為「右ちさか、左京みち」と刻まれた石碑があったらしいが、そこにあった石碑は、
昭和11年京都府福井県重要産業道路開発の功労記念碑だった。別の場所にあるのかな?
いまから500年ほど昔、蓮如上人も通ったいにしえの峠道はここから始まるのである。


「知井坂・八ケ峰堂本登山口」と書いてある
標柱の右側を入って行く、石碑は左側にある。

峠道らしい緩やかな登り、古道は何カ所もバイパスされていたり、平行についていたり、昔の道
をそのまま辿るものではなかったが、古道は深いV字型をしていたことが良く判る。3m近い深い
所もあり、くねくねとよく曲がって登っている。傾斜が緩いので後で出来る道は自然と直線的に
付けられてしまうのかもしれない。



送電線の巡視路へ出るまでは古道の雰囲気を味わえた。少なくとも林道へ出るまでは良かった
のだが、林道から峠に向かう道は、これも砕石を敷き詰めた造りたての林道なのである。昔の
道の上に造られているのかもしれないが、昔の面影は取って付けた様な手水鉢くらいである。

峠のせめて100m前後は昔のままであって欲しいと想いながら歩いたのであるが、そして、こ
こが峠だと云う柱でもあればと想ったのであるが、そのまま行き過ぎて林道の終点まで行って
しまったのである。


峠付近の石塔

戻ってその辺をうろうろして、石塔を見つけ、京の方へ降りると思われる古い道もあったので、そ
こが知井坂なのだと判ったのだ。石塔への上がり口には峠の由来を記したほんとに小さな札が
下がっていたが、字が消えかかっていてほとんど読めない。

この峠越えは峻険であったため、この峠を越えるのに血涙を流す程で血坂越えと呼ばれ、峠の
呼び名となったとか。でも幾つかの説があるらしい。旧陸軍が野砲を引っ張り上げたと云う記録
があり、その時重荷を背にして行き交う人々もそんなに辛そうには見えなかったとあるらしい。
峠の呼び名には別の由来が相応しいかも知れない。


八ケ峰山頂

峠から700m位で八ケ峰(800.1m)の頂上に着く。このちょっとが登りらしいと云う今日の峠
歩きは楽な道なのである。日射しが強いが幸いに松の枝が日陰を作ってくれている。その分展
望は遮られるのだが。1個100円の鯖の照り焼きの缶詰を手づかみで食べながら冷たい発泡酒
を飲む。そして定番のバナナ、ぶどうパンと続くのである。

そこへ2人のおじさんに連れられて3人の小学生らしい子供が登ってきた。孫だろうか。低学年
の顔を真っ赤にした2人の女の子が可愛らしい。子供が登って来ると私はなんだかうれしくなっ
てしまうのである。美山町知見から登ってきたという地元の方達で、腰にナタを付けていた。
昔ここへ登った時は、この様な大きな松は無くて八方が良く見えたと云い、最近は気温が高く
こんな所でも松が良く育つのだろうかと言っていた。林道が延びているのにも驚いたそうだ。冷
たい缶ビールを差し出されたが今飲んだところなので遠慮させてもらった。

そこへまた五波峠から来たというご夫婦が到着。皆さんそれぞれ1時間半ほどで来たという。私
は道を間違えたり、峠付近をうろうろしたため3時間を超えてしまったのである。

(’00・08・16)



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